マザー・テレサのこんな名言がある。
私はこの言葉が好きで、毎年、手帳を買うとまず、1番後ろのフリーページにマザー・テレサのこの名言をつらつらとしたたためている。
美人になりたいと思った時、まず思い浮かぶことは『ダイエットをしてみようかな?』だとか『細く見える服はどれだろう?』『髪型やメイクを変えてみようかな?』とか、身なりを整えることである。
だけども、松浦弥太郎のエッセイを読んで「外側ばかりじゃイカン!」と反省した。
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テーブルにコップを置く。ドアを閉める。エレベーターのボタンを押す。こんなありふれた動作が、美しくも醜くもなります。(P134)
体型や服装など外側を整えていくこともすごく有効だとは思うのだけど、美しい所作や立ち振る舞いは滲み出る美しさというか、何かこう根っこの部分から美人のような気がする。
想像してみると、ドアをバーン!、渡した資料をビャッとひったくるように取る、ドスドス歩く…なんて、どれだけ綺麗な身なりをしていても醸し出るガサツな感じが全てを台無しにしてしまう行為である。
だけど『美人になりたい!』と思った時に、所作や立ち振る舞いについて考えたことがどれほどあっただろうか。まさに”木を見て森を見ず”である。
対人のことに関しては理性が働いて柔らかな態度を意識できている人も多いだろうけど、エンターキーを叩く、ドアを閉める、コップを置く…みたいな自分1人で完結することって多分本人は荒々しいように見えているって自覚がないのでは?と思う。
こういう事は”癖”なので、他人の「ん?」って部分は目についても自分のことには意外と気が付かないものだったりする。
雑に、荒々しくしてしまっている部分がないだろうか?と思い起こしてみると、いくつかドキリとする部分があった。特に1人で完結できる分野で。
今日1日は普段よりも”静かなしぐさ”意識して過ごしてみた。
ファッションもメイクもお金や時間のかかることだから、こんな少しの違いで美人に見えるようになるならば儲けものである、なんて邪な気持ちを抱きながら。
静かな所作で損をすることはないので、習慣にすべく、明日も引き続きやってみようと思う。
この行動が習慣(当たり前の行動)になり、素敵な運命を連れてくる。そんな日がいつか訪れたらいいのだけど。