人間関係は”狭く深い”方が良い、と言われる。
私も「取るに足らない関係に時間を潰すなんて無駄じゃん」とこの意見に賛成だったのだけど、この考えは正しかったのか少し自信がなくなってきた。
…というのも、『生き辛さ』の原因はガチガチに固まった価値観にあるからだ。
良い学校を出なければ、良い会社に勤めなければ、お金を稼がなければ、結婚しなければ、子どもを産まなければ…。
この『~~しなければ、さもなくば…』が私はしんどい。頑張るのをやめたらどうなってしまうのだろう、と怖かったりする。もはや脅迫だ。
小説【ふじこさん】にこんな一節が出てきた。
「リサの知らないところで、いろんな人が生きている」
その言葉が、どんなに強い衝撃だったか、わかってもらえるだろうか。
生まれてから関わってきた人たちがすべてだと思いこんでいる感性。もちろん、いろんな人が、自分の知らないところで生きていることぐらい、頭ではじゅうぶん理解してはいた。けれども、それは、インドの首都がニューデリーであると知ってはいても、ニューデリーがどのくらい暑くて、人々がどんな言葉で会話し、なにを食べ、なにを笑い、なにを感じ、なにを信じているのか、じつはまるでわかっていないのと似ていた。(P46)
本当はさ、追いつめられるほど『ちゃんと』しなくても生きていけちゃうじゃない。
だけど、高校⇒大学⇒社会人と成長していく中で、周りの人といかに世間に評価されるイスに座れるかを競い合ってきて、それ以外の正解の生き方を知らないんだもん。
高学歴ニートって、プライドが高いだなんだって言われるけれど、同級生や先輩・後輩は良い会社勤めだろうから、大きな会社で勤める以外の生き方を知らないんじゃないだろうか。
私たちが「会社が嫌ならフリーターでもやっていけるよ」って言われて、実際計算して「やっていける!」って頭で理解できてもその選択をためらってしまうように、小さくて無名の会社で暮らしていける感覚がこれっぽっちも浮かんでこないんだろうなって思う。
近しい人と狭く深い関係を築くのは、”類は友を呼ぶ”じゃないけれど、同じことが正しいと思っている人の集まりだから、その価値観を妄信してしまうなあと思う。
順調な時は良いけれど、躓いた時、「あれ?正しいはずなのに全然幸せじゃないな」と思った時、暗闇で独りぼっちになったみたいに、どう進んで良いのか分からなくなる。
そんな時、立ち止まって考える時間を作る勇気が出れば良いのだけど、立ち止まることさえ遅れになってしまう気がする世の中だ。進んだ先に本当にゴールがあるかなんて分からないのに。
自分の正解とは違う生き方をしている人と出会うことは、『生き方はたくさんあるんだ』ってきっと安心感になる。
私は【家ついて行ってイイですか】(テレビ東京)と【ねほりんぱほりん】(NHK)が好きなのだけど、その理由が少しだけ分かった気がする。
人生や生き方はこんなにたくさんあるのだ、色んな生き方で生きていけるのだ、とそんな当たり前のことにただただ安心できるのだ。
もし10代の自分に声をかけられるなら、『性別・年齢問わず色んな人と出会える場所に行きなさい』と言ってあげたい。今と同じ選択をしたとしても、心のゆとりは全然違ったはずだから。
いや、中村天風は『明日に死を迎えるとしても、今日から幸福になって遅くないのです』という名言を遺している。
今からでも遅くないのだろうか。
あのね、リサは、これから、いろんないろんな人にたくさん出会うの。次から次へと。そりゃさ、いろんな人がいるんだから、気の合うやつもいれば、気の合わないやつだって当然いる。恋に落ちたり、憎しみあったり、出会えば出会うほど、それから、関われば関わるほど、へとへとになっていったりするんだと思う。でね、そうこうするうちに、リサだって、変わっていくのよ。変わらないところもあるかもしれないけど、変わるところはどんどん変わっていく。びっくりするぐらい変わって、あたしの方が、ある日、腰を抜かすかもしれない。それでいいの。それだからおもしろいの(P50)
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