あまり家庭的ではない私だけれど、掃除機が好きだ。
「掃除機が好きなんです」と言うと「オススメある?」と聞かれてしまうのだけど、そういうことではない。掃除機を”かける”のが好きなのだ。
まあ「掃除機をかけるのが好きだ」と言っても「オススメある?」って聞かれちゃうのだけど。
かつては部屋の隅に新品も中古もまぜまぜの服塚(服の山)を作ってしまうような暮らしをしていた。そんな人間だから当時は「前回、掃除機をかけたのっていつ?」なんて考えても、それは思い出せないほどはるか昔のことだった。
掃除機をかけるのが好きになる日なんて来るわけないと思っていたけれど、何事もきっかけというものは些細な事だったりする。
数年前、母親が「欲しい、欲しい」と言い続けていたダイソンの掃除機がついに我が家にもやってきたのだ。
海外の土足文化に適応した『砂利や小石くらいなら吸っちまうぜ』って威力を持った掃除機。
そりゃ家に届けば使ってみたくなるでしょう。だけど、私を魅了したのはセールスポイントである威力ではなく(後にマキタも買ったのだけど、やっぱダイソンはすごい!ってなったよ)、ゴミが溜まるところ(ダストカップ)が透明で、掃除機をかけると部屋のゴミが目に見える形で回収されていく様だった。
目に見えなかった塵が「どこにこんなにあったの!?」ってホコリの塊になって現れる。
『塵も積もれば山となる』じゃないけれど、これだけの汚れがゴソッとなくなったのだと思うとすごい清々しい気持ちになった。
犬のトリミングだったり、トカゲが脱皮したり、そんな映像を観ていると、つるんと綺麗になった体に「スッキリしたね」「軽くなったね」と思う。掃除機をかけたあとの部屋にも、それと同じような気持ちがわいてきて掃除機の後はニンマリしてしまう。
この不必要なものが剥がれ落ちていって得られる、身軽になるような感覚にすっかりとハマってしまっているのだ。
マンション住まいの私は、暗黙の了解として掃除機をかけてはいけない時間帯が存在していて、毎日はかけられないので、掃除機がかけられる時間に帰宅できるとすごく嬉しい。
「こんな楽しみがあるんですよ!」とアピールできるような高尚な楽しみではないけれど、「こんなにホコリがとれた(部屋が綺麗になった)」という達成感に1人こっそり満たされているのである。
しかしながら、定期的に掃除機をかけていても次回にはまたそこそこのホコリが回収される。ホコリは尽きることがない。いやはや、一体どこからこんなにホコリはやってくるのだろうか。