12月某日『雨宮まみの文章に救われて』

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先日書いた記事の中で【雨宮まみ】に触れたら、無性に彼女の文章が読みたくなって、本棚から引っ張り出して読み返していた。

 

人は完璧だから人を愛するのではありません。友人も恋人も家族も、完璧だから、自分にメリットがあるから付き合っているわけではないでしょう?完璧じゃなくても大事だし、完璧じゃない部分が愛おしかったりもします。

そんな気持ちを自分にも持てたら、もう少し自分のことを大切にできると思うのです。

 

こんな内容の文章をネットで見て、自己肯定感の低さに悩んでいた時にすごく救われたのである。(今、検索してもこの文章見付からん~~!)

 

【女の子よ銃を取れ】は、女の子がルックスで値踏みされる世の中で、著者がもがきあがいた末に見付けた著者の心の在り方が書かれている。

 

美醜の感覚がイマイチ分からないのだ、と書いたことがある。

記事私が思う『美しい人』 - 未熟な日々

 

そんな状態でも、女性という性別に生まれ落ちた宿命とでもいうのだろうか。参加表明などしていないのにルックスを評価されるレースにぶち込まれて生きている。

 

美醜が分からない私には、何をどうするのが”優”を貰える努力なのか分からず、だけど無理矢理とは言えレースに参加している身としてぼーっと突っ立っていることも許されず、目隠しをしてゴールを目指すような自信のなさをずっと抱えていた。

 

美の権化のようなスーパーモデルに憧れていても、実は「美しいものならなんにでもなりたい」と思っているだけで、そこには美意識のかけらもなかったからです。「マリリン・モンローオードリー・ヘプバーンと、グレース・ケリーブリジット・バルドー、なれるなら誰がいい?」と訊かれて、「誰でもいい!」と答える感性の貧しさ、確固たる美意識のなさを、私は昨日のことのように思い出すことができます。(P18)

 

この”美しいものなら何でも良い!”って部分はよく分かる。

「こんな風な美人になりたい」って気持ちじゃなくて「ただただ美人に分類されたい」って気持ちだ。

 

そもそも人の好みは千差万別だということ

なぜか『美』は共通だと思っている節がある。

スリムな人が好き、健康的な人が好き、高身長が好き、小柄が好き、フェミニンが好き、カジュアルが好き、モードが好き…ちょっと考えただけでもこれだけ様々な(ジャンルによっては対極にある)『美』が浮かんでくる。

 

こんなにもたくさん正解があるのに、こんなにも評価基準が人によって違うのに、勝手に参加させられたレースで上位を目指そうと心を病むなんて馬鹿らしいと思えてきた。

 

男のまなざしは、女が思うよりもずっと豊かで、多面的なものです。女が男を見る、そのまなざしと同じように、複雑で豊かで、ほんのささいな魅力も見逃さないものです。

 華やかが好きだとか、いや、作業着で地味な仕事をしている女性に色気を感じるとか、男の人は好き勝手なことを言います。そして、その言葉とはまったく違う相手と恋に落ちたりします。いい気なものです。だから、こちらも、好き勝手なことを言って、好き勝手にふるまっていいのです。(P100)

 

本書にはケイトモスの名前がちょくちょく出てくる。

ケイトモスはファニーフェイスと言われて、いわゆる美人顔にはあてはまらない。だけど美人なモデルたちに比べて魅力がないかと言われると決してそんなことはなくて、むしろ彼女は唯一無二な存在だし、多くの人を魅了している。

 

そもそも人は”唯一無二”である。人それぞれに魅力がある。その自分独自の魅力に気が付けた時、勝手に参加させられたレースから自然と抜けられるんじゃないかと思う。

 

誰かにとって代わられるような”美”ではなく、自分の個性を理解し魅せ方を知っている人、それを磨き上げられる人が、【美】を超えた美しい人だと私は思う。

 

そんな考え方を教えてくれたのが雨宮まみさんの文章だ。

もう亡くなられてしまったと思うとすごく寂しい。彼女が書く40代~の世界にも触れたかったな。

 

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